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何階から落ちますか リプレイ小説

【注意事項】                                           クトゥルフ神話TRPG、パラシャイ子様製作シナリオ『何階から落ちますか』のリプレイ小説です。                            実際のセッションを元に作成していますが、小説化に当たって加筆や修正を加えています。                             小説形式ですのでTRPG関連の用語は出て来ません。                       TRPGをプレイした事が無い方でもお読みいただけます。                      ※『何階から落ちますか』のネタバレを含みます。                                              ※直接的な絡みはありませんがBL要素を含みます。

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プロローグ

『でも俺は、センセイの書く物語が好きですよ』
その一言で簡単に自分は落ちた。
何に落ちたのだろうか。恋に落ちたと言葉にすれば、それはいかにも恋愛小説めいた出だしとなるだろう。
だが、その時に湧きおこった感情にそんな大層な名など付けられない。
心臓を鷲掴み、そのまま鼓音を止めてしまう程の痛みを与えた衝撃。
暗い暗い場所へと感情の裾を引きずり去ってしまう凶悪な腕。
深淵を覗き込む気などなかった。
だが、覗き込まなくとも深淵の方から手招いていたのだとしたら?抗う術など人間に存在しているのだろうか。
その時に落ちた先を例えるならば。
「深い奈落だよ」
高坂 ときわは鏡の中の自分に向けてそう呟いた。
自室に篭りあまり外に出ない顔は青白く、後ろで束ねた長い黒髪だけが存在感を放つ。
決して高いとは言えない背と細身の体躯のせいで、遠目から一見すれば女性に見えるかもしれない。
鏡の中、暗く淀んだ瞳がこちらを見つめ返してくる。
ときわはそっと、その名を口にしてみる。
「…彗太くん」
それだけで胸が跳ね、熱が身体に宿る。
淀んだ瞳に僅かに光が差し、頬が赤く染まった。
―気持ち悪い。
不鮮明に彩られた感情は、醜く自分を飾り立てる。
例え落ちたとしても、深く暗い奈落の底から、切り取られた青い空を見上げてしまうのだ。
手が届かない青と知っていても、なおもその腕を伸ばしてしまうのだ。
あぁ、本当に気持ちが悪い。
奈落の底にいたとしても、それでも人は簡単に死ぬ事は叶わない。
天上を夢見ながら、いずれは奈落の住人の仲間となる。
ときわは鏡の中の自分から目を逸らし、深く息を吐いた。

その時、リビングからピコっと間の抜けた音が鳴った。
メッセージアプリが新着の案内を知らせる音だろう。見なくても相手が誰なのかは分かっている。
ときわは自然と顔をそちらに向けた。
鏡を見なくても知っている。彼を想い、彼の言葉を求め、彼に縋ろうとしている。
そんな自分はきっと、彼からのメッセージに微笑んでいる事だろう。

あぁ、どんなに否定しても拒絶しても変わらない。
人々はそんな彼を見て言うのだろう。
―お前は恋をしている。
なんて。

1.

高坂ときわが小説を初めて書いたのは大学二年の時だった。
元々、読書が趣味ではあったが、国語の授業の作文は苦手で毎度毎度ありきたりな事をありきたりな手法でまとめ、適当に提出していた。
自分の思いとやらを真面目ぶった言葉で着飾らせて並べ立てる事に意味などあるのか。
鼻先で笑い飛ばしながらも義務的に原稿用紙を埋める作業。
作文ですら真剣に書いた事のない子供として育ち、それは大学二年の夏休みまで変わらなかった。
そんな自分がまさか小説を書く様になるなどとは一度たりとも想像していなかった。
始まりの日の記憶は曖昧だ。酷く暑い日で、する事もなく部屋で惰眠を貪っていた事だけは覚えている。
レポートをまとめるためのルーズリーフがテーブルに一枚だけ置かれており、遊び半分で思いついた事を書いたのだ。
『これは私の物語である』と。
その一文を記した事ですべてが変わった。
そっと一筆だけ記すと、すぐに次の文章が湧き水の様に溢れて来て、止まらなくなった。
まるで憑りつかれたかの様にときわはひたすらルーズリーフに思うまま文を書き続けた。
大学が夏休みだった事も、バイトをクビになった事も、その行為に拍車をかけた。
それこそ寝る間も惜しんで、食べる事すらも忘れてひたすらにシャープペンで紙に文字を並べ続けていたのだ。
それはときわにとっては"書く"と呼ぶよりも"吐き出す"と呼ぶに相応しい行為だった。
体の奥からあふれ出る感情を吐瀉物の様に紙に書き連ねた。
板書用に買き置きしていたルーズリーフはすぐにすべて無くなり、シャープペンは過労で何本も折れた。
それでもときわは自らを止める事ができなかった。
最終的に何枚のルーズリーフに小説と呼べる物を書いたかはもう覚えていない。
ようやく冷静になれたのは、黒鉛まみれになったルーズリーフの端に『おしまい』と力無い文字を這わせた瞬間だった。
その時はただ"終わった"という感想しかなかった。
アルコールに悪酔いした時に吐くだけ吐いてすっきりする感覚に似ていた。
吐き出した物に対して嫌悪感しか抱かなかったのもそれに似ていた。
書いた小説を誰かに見せる気など毛頭無かった。
乱雑に記された文字は自分にしか解読できない程に荒れ狂い、肝心の内容も日本語として成り立っていない不出来な物でしかなかった。
ときわの気が変わったのは彼の吐瀉物がクローゼットの奥にしまい込まれてから一年が経過してからだった。
理由は定期的に購読していた文芸誌にホラー小説の公募新人文学賞の記事を見つけたからだ。
自分が書いた物など到底、賞に手が届くわけがないとその場では鼻先で笑ったが、記事の内容がしばらく頭から離れなかった。
もしかしたら、ひょっとしたら、奇跡でも起これば。
誰でも持っているちっぽけな自己顕示欲がときわの中でゆっくりと頭をもたげた。
ときわは物静かで大人しく、消極的な人間だと周囲に思われる事が多かった。
だがその実、内には瞬発的に物事を決めてしまい、決めてしまえばそれにのめり込んでしまう癖があった。
真夜中である事にも、翌日に授業が控えている事にも構わず、ときわはクローゼットから大量のルーズリーフが入った箱を取り出し、その文字をパソコンに打ち込む作業を始めていた。
作業は三日三晩に及び、ときわはその間の講義もアルバイトも休みようやく一本の小説を他人が読める形に纏め上げた。
最後に、一年前には記さなかった文字をそれにつけ足す。
『新月を縁取る』
それが、その小説のタイトルだった。
小説を新人賞募集のサイトに送ってから、ときわの生活は目まぐるしく変わっていった。
あっさりと言う言葉でしか表せないほどあっさりと『新月を縁取る』は新人賞の大賞を受賞した。
『新月を縁取る』の文体は非常に癖が強く、内容も凄惨で、後味がひたすらに悪い小説―有り体に言えば読む者に強い嫌悪感を与える内容だった。
事実、著者であるときわ本人ですらルーズリーフから文字を起こす際に、一年前の自分の精神状態を疑った程だ。
だが、読み手を選ぶ作品だからこそ玄人の目を引いたのだろう。
受賞後は担当と呼ばれる人が付き、それなりに大学でも有名人となり、そのまま卒業してからも小説を書き続けている。
25歳となった今も、彼は高坂ときわと言う本名で小説家と言う肩書きを持っていた。

アパートから駅まではバスを乗り継いで向かう事になる。
都心とは言え郊外のアパートを住まいに選んだのは、ただ単に家賃が安かったという理由以外にはない。
一応は小説家と言うステータスこそ持ってはいるが、ときわが書く小説は処女作以降、鳴かず飛ばずの売れ行きだ。
小説の文体も内容も癖があまりに強すぎて一般受けしないのが売れない作家となった原因だ。
一部のコアなファンこそいるが、それでも大衆にウケなければ小説家など極貧の生活を強いられるものだ。
かつての文豪達も借金にあえぎながら―まぁ、自業自得の事も多いが―血をインクに変える様な生活の中で文を書き続けていたと聞く。
ときわもそれと同じ様に郊外の安普請でアルバイトをしながら辛うじて小説家先生として生計を成り立たせていた。
ピコっと再び、スマートフォンが掌の中で音を立て、ときわは画面を開いた。
そこには、『月野和 彗太』の名と共にときわ宛のメッセージが書き連ねられていた。
『待ち合わせ場所は西口改札の前って事で』
メッセージに続いて、おどけた表情のクマをモチーフにしたキャラクターのスタンプが送られてくる。
クマが滑稽な顔で投げキッスをすると、その後に『よろしく』の文字がクマの頭に降ってきてクマが気絶する。
社交的で誰の懐にもスッと入り込んでしまう彗太らしい愛嬌のあるスタンプだ。
ときわは何と返信するか悩む。
彼には、こう言った何気ないメッセージをやりとりする相手、要は友人と呼べる存在は彗太以外にいない。
そして当然の様に彼女もいない。
メッセージアプリには両親と妹と出版社の担当者と彗太以外に登録されている者はいなかった。
ときわにとってメッセージの返信は不慣れな作業、悩みの種でしかなかった。
気の利いた言葉を返すか、彗太の様におどけたスタンプを送れれば多少は堅苦しさも無くなるのだろうが生憎とときわにそんな能力などみじんも無い。
文章を扱う事を生業としていようが、自分の好き勝手に書ける小説と、受け手の心境を察しながら送るメッセージは別物なのだ。
結局、バスが2つの停留所を通過する間、悩み続けたあげくにときわが返信したのは『わかった』の一言だけだった。
送ったメッセージが即座に既読となり、ときわは息を吐いた。
彗太は素っ気ない自分のメッセージを見てどう思うのだろうか。
ときわからのメッセージはいつどう頑張っても一言、二言だけになってしまう。
彗太はそれを『センセイの小説みたいな文で来たらフツーにビビるんで、ちょうどいいですよ』と笑って流してくれるが、本心でどう感じているかは量れない。
「…知れないし、知りたくもない」
ときわの呟きはバスの揺れと共に落ちて消えた。
月野和 彗太はときわと同じホラー小説の作家だった。
彼の方が年が3つ下で、ときわが新人賞で大賞を受賞した際に次点に当たる賞を受賞したのが彗太だった。
彼は当時、高校生だった。
大学生と高校生がダブル受賞と当時は話題になったが、大賞のときわよりもカメラが多く向けられたのは彗太の方だった。
理由は簡単だ。月野和 彗太は大変に見栄えする容姿だったのだ。
すらりとしなやかな肢体をしており、マネキンの様に一挙一動が絵になった。
それに整った目鼻立ちの顔がくっ付いてきて、おまけに愛想も良い。
カメラマンだって、より綺麗な物を被写体としてフィルムに収めたくなるのは当然の事だろう。
肝心の作品の方だってそうだ。彗太の作品はときわとは違う方向へ特化した作風だった。
ホラーらしいおどろおどろしさも残しながらも、ライトノベルと呼ばれても良さそうな軽快な文体。
魅力的で愛らしいキャラクターと、それを裏切る重々しい設定。
張り巡らされた伏線と、鮮やかにそれを回収する展開。
大衆が惹かれるいくつもの要素を彗太の著作は持ち合わせていた。
その証拠に彼は現在、現役大学生作家としてその名を轟かしている。
書店を覗けば彼の新刊は入口付近に積まれ、今年は著作を原作としてドラマが始まるとの話だ。
「遠い存在なのにな…」
ときわはぽつりとこぼしながら、メッセージアプリの画面の中で投げキッスをするクマを眺めていた。
どうしてか、彗太はときわを時折こうやって食事や遊びに誘ってくれる。
彼に何の意図があってそうしているかはわからないし、あるいは意図すらも存在していないのかもしれない。
今日、こうしてときわがバスを乗り継いで駅へと向かっているのも彗太と会う約束をしているからだ。
知らず胸が弾み、ときわは深呼吸をした。何を話せば良いのだろうか。彼と会う前は毎回毎回、同じ事を考えてしまう。
彼との会話を脳内でシミュレートし、あらゆる話題への返答を何度も繰り返す。
だが、実際は話そうとしていた事の大半は胸の中にしまったまま、帰路に着く羽目になる。
言いたい事など、彼を前にすると何も言えなくなってしまうのだ。その度に反省をするが、次回に活かせた試しがない。
今日もきっと、そうなってしまうのだろう。
バスが終着場、駅へ到着するとアナウンスが流れる。
ときわは横の席に置いていたリュックサックを抱え、スマートフォンをそれにしまう。
景色が流れ、駅が近づく。
ありふれた日常。当たり前の日々。
ときわは知らなかった。今日が、自分を根底から変えてしまう何かが始まる日である事を。


2.

バス停から駅の改札までは長い階段を上る必要がある。残念な事にエスカレーターは存在しない。
ときわと共にバスを降りた学生達は先を急ぐ様に、目の前の階段を勢い良く駆け上がって行く。
その眩しいほど生命力にあふれた後姿を見送りながら、ため息を吐いた。
デスクワーク中心でほぼ運動などしていないときわからすれば信じがたい行為だ。
わざわざ、あの長い階段を上る元気など、ミノムシが如く動かない生活を送る作家ごときにあるはずがない。
彼は学生達とは異なる方向…具体的には文明の利器が存在する場所へと足を向けていた。
"エレベーター"頼れる文明の利器にはそう名前が付けられている。
案内のピクトグラムが掲示されている場所へと向けて歩みを進めた。
彗太はもう改札前に到着しているだろうか。
彗太は時間にうるさい人間ではないが、年長者として待たせるわけにはいかない。
少し歩むと視界の端に目的のエレベーターが見えた。
丁度、その扉は閉まろうとしている。ときわは足を速めた。
乗り遅れれば大幅に時間をロスしてしまうだろう。かと言って乗り遅れた所で階段を駆け上がる気はさらさら無い。
「待って!乗ります乗ります!」
慌てて駆け寄ると、エレベーターの扉は閉まる直前に僅かに口を開いた。
その隙間からときわは雪崩れ込む様にエレベーターの内部へと吸い込まれて行った。
直後に扉は鈍い音を立てて閉ざされる。
誰かが自分の声を聞いて扉を開けてくれたのだろう。
そう思い、ときわは荒れた息を抑えながらも礼を言わなくてはと顔を上げ…そして気づいた。

―だれもいない。

エレベーターの中には、自分しかいない。
確かに、エレベーターは誰かの意思で再び口を開けたはずなのに。
「…え?」
密閉された空間の中にときわの声が小さく響いた。その声は僅かに反響し、一人だけの空間を不気味さで満たした。
エレベーターは動かない。階数を指定しろとばかりに黄色のランプがパネルに点っている。
普通、普通のはずだ。ごく普通のエレベーターだ。
それなのに、どうして、なぜか、なぜなのか。
冷や汗が背を伝う。乱れた呼吸は走ったせいだけではない。
この空間がそうさせている。ここは何かがおかしい。
ときわがそう思った瞬間。声が響いた。

「なんかいからおちますか?」

事務的な声。それは普段、エレベーターで耳にする機械的な女性の声だった。
どこかから降ってきた声は人間の発した声とは思えないほど感情を失った声色で耳に入って来た。
「落ち…る?って言った?」
ときわは誰に確認するでもなく―いや、自分自身に確認するためそう呟いた。
通常ではあり得ないアナウンスだ。エレベーターは上り下りする物であって、落ちる物などでは決してない。
ワイヤーが切れでもしない限り、は。
聞き間違いだ。きっとエレベーターに自分のつま先だか何かが挟まって開いただけだ。だから何も不思議な事などない。
さっさとボタンを押して、二階へと上がって待ち合わせ場所に行かなくてはいけない。
ときわは首を振って、苦笑しながらパネルへと向かった。
『2』のボタンを押そうと人差し指を伸ばしかけ…すぐに止めた。
「…冗談だろう?」
駅のエレベーターはバス停のある1階から改札のある2階まで移動するための手段でしかない。
従って、階数のボタンは『1』と『2』しか存在しないはずだ。
それなのに。
『0』『1』『2』『3』『4』『5』『6』『7』『8』『9』『10』
並んだボタンはどれも押してくれとばかりに黄色く輝いている。
あり得ない。こんな光景などあるはずがないのだ。
ときわは乾いた口内を湿らす様に唾を飲み込んだ。
現実が受け止められない。いや、そもそもこれは現実なのだろうか。
「ここは、どこなんだ?」
流れ落ちた汗を拭いながら、エレベーターの中を見回す。
先ほどは気づかなかったが、ボタン以外も普段使っている駅のエレベーターと様子が異なっていた。
自分が滑り込んだ扉には『3/14ホワイトデー。大切なあの人への贈り物は決めましたか?』と文字が記されている。
文字に異常は無い。ゴシック体で書かれ、青と白の花のイラストで装飾されている。
その下には『ホワイトデーコーナーは7階 催事場まで』と追記されていた。
確かに今日は3月の14日だ。女性から受けた愛情や信頼や義理とやらに報いなければならない日だ。
だが、問題なのはそこではない。
ときわは首を振った。駅に7階など存在しないのだ。まして、催事場などあるはずがない。
不意に顔を上げると、エレベーターの扉上には『各階のご案内』と言う文字と共に、駅のエレベーターではあり得ない表示が記されていた。
『0階(れんごく)/1階(食品売り場)/2階(レディース用品)/3階(メンズ服)/4階(ベビー用品、ブライダル)/5階(アクセサリー)/6階(書店)/7階(催事場)/8階(駐車場)/9階(駐車場)/10階(屋上遊園地)』
2階に上がるためだけのエレベーターに書かれた案内のはずがない。
それに駅には商業施設は併設されておらず、建物も2階までしか無いのだ。
当然、食品も、衣類も、本も、駐車場も、まして屋上に遊園地などあるはずがない。
これは、この案内はまるでデパートだ。だがそれでもおかしい、なぜなら、なぜならば。
「…れん、ごく」
曲りなりにもホラー小説家だ。0階の文字と共に書かれた『れんごく』の文字を見れば嫌でも脳内で『煉獄』に置き換えてしまう。
地の底、奈落の底。このエレベーターは地獄だか天国だかに繋がっているとでも言うのか。
ここはおかしい、ここはふつうじゃない、ここはどこなんだ、ここはどこなんだ、ここはどこなんだ、ここはどこなんだ。
心臓が早鐘を打つ。生唾を飲み込み、叫びたくなる衝動を必死に抑える。
夢であれと願うが、感覚は酷く現実めいていて、簡単に醒める様子もない。
日常への糸口を探る様に、ときわは慌ててエレベーターの『開』ボタンを押す。
何が何でもここから出なくてはいけない。本能がそう告げていた。
だが、ボタンは一切反応しない。『開』と『閉』ボタンは点灯すらせず、当然扉は開かない。
「どうして、こんな」
焦りながらも今度は非常ボタンを押す。万が一。万が一の可能性に賭ける。
縋りたかった。通話の相手が誰であろうと、この場所から出して欲しかった。
今度はボタンを押すと確かに反応があった。
プッと僅かな通話音が響き、ときわは「すみません、助けて下さい!」と半ば叫ぶ様にマイクに声をかける。
繋がった。そう、確かに繋がったのだ。
でも、誰に、どこに、繋がった?この異様な世界で。不気味な密閉空間で。
誰に、どこに、繋がってしまったのだろう。
「あなたは何階から落ちますか。あなたは何階から落ちますか。あなたはなんかいからおちますか。あなたはなんかいからおちますか。アナタハナンカイカラオチマスカ。アナタハナンカイカラオチマスカ。アナタ ハ ナンカ イカラ オチマスカカカカカカカカカカカカカカカカカカッカカカカカカkkkk」
流れた無機質な声に、ときわは思わずパネルから身を離した。声は繋がった時と同じ様にプッと切れた。
人間の声では無かった。だが、何の声だったのかは、想像もしたくなかった。
いよいよこの場所が、現実から隔離された異空間ではないかと疑問が胸を占める。
ときわが文字で描き続けてきた、狂った世界。歪んだ虚構。闇を孕んだ現。まるでホラー小説そのものではないか。
気味が悪い。いや、気味が悪いという程度で済む話ではない。
「…うっ、えっ」
不快感と焦りが体に影響を与えたのか、途端に強い吐き気に襲われ、ときわは口元を抑えた。
嗚咽が唇の隙間から漏れる。
気持ちが悪いだけでは言い表せられない。胃がひっくり返るほどの強い吐き気。
まるで胃の中で何かが暴れまわっているかの様な、熱く、強い痛み。
焼けた鉄の玉を飲み込んでしまったのだろうかと錯覚する。
れんごく…そう、まるで胃の中に煉獄の炎が燃え盛っているみたいだ。
それは体内から出たいと訴えかけるかの様に胃を這いまわり、食道を駆け、明確な意思を持って口から出ようとしている。
「うえっ、げほっ…けほっ…」
何度もえずきながら、ときわは涙目でそれを吐き出した。
吐き出された物はそのままエレベーターの床に叩きつけられる。
胃液に塗れて口から排出されたのは、銀色の何かだった。
吐き出しても胃は痙攣を続け、ときわはエレベーターの壁に背を預けた。酷い倦怠感だ。
整わない息のまま、吐きだしたソレを見る。
銀色の球体。いや、よくよく見ればそれは、銀色の紙に包まれた物体だった。
「げほっ、げほっ…な、なに?」
胃液で喉が焼ける。口の中に酸味が広がり、それが気色悪くて更に吐きそうだ。
ときわは口元を拭いながら、銀色の何かを拾い上げた。
「…お菓子?」
その球体は2、3cmの直径をしていた。
銀色の包装紙で包まれており、その紙には『le chasseur』と赤字で印字されている。
先ほど、ホワイトデーの文字を見たせいだろうか。それは高級なチョコレートを包んでいる包装に見えた。
だが、チョコレートを渡す習わしがあるのはホワイトデーではなくバレンタインデーだ。
このチョコレートも女性から男性へ渡すに相応しい物なのかもしれない。
義理チョコ以外をバレンタインデーに貰った事のないときわからすれば全く縁のない代物だ。
もちろんときわは今日どころか生涯の内でこんな高級そうなチョコレートを食べた記憶などない。
『le chasseur』恐らく綴りからしてフランス語だろう。
菓子にも流行にも疎いときわからしてみればこういった物に対する知識はさっぱりだが、印字されている部分からすればブランド名なのだろう。
有名なブランドなのだろうか。デザインには高級感があり、いかにも贈答用の菓子だと判別できた。
生憎と、フランス語は専攻していない。
ブランド名を読めはしないが、言葉の意味はそれほど重要ではないのかもしれない。
ときわは嘆息を吐きながら銀紙を捲った。
銀紙の下からは予想通りチョコレートの濃い茶色が顔を出す。
見た目は美味しそうだが、何せ自分の胃の中から吐き出された代物だ。
もう一度、胃に戻してやろうなどとは決して思わない。
まだ胃の中は不快感で未だゴロゴロと音を立てている。
軽く指で押してみると、チョコレートがふにゃりと歪んだ。どうやらチョコレートで何かをコーティングしているらしい。
力任せにチョコレートを裂くと、その中からは白いマシュマロ…そして、更に中から丸まった銀紙が出て来た。
まるで密輸の手口だな。と三層構造になったチョコレートを見つめながらときわはぼんやりと思った。
気味が悪い事には変わらないが、少しずつこの状況にも慣れてきた。
むしろ、ホラー小説家として興味すら湧いてきてすらいた。
非現実めいたエレベーターで、非現実めいた体験をしている。恐怖以上に好奇心が勝っていた。
ときわは指先で小さな銀紙を解く。中からは、黒く、長い、糸。いや、糸ではなくこれは。
「あぁ…髪の毛か」
やけに冷静にときわは言葉を発していた。
絡まって毛糸玉状になった髪の毛が銀紙の中から現れた。髪の色は黒。
ときわも長い黒髪を後ろで束ねているが、この髪の毛はときわの物よりもずっと細い。明らかに別人の物だ。
そして、解かれた銀紙の内側には一言、『今年も受け取ってくれなかったね』と文字が記されていた。
あぁ、そうか。これは、バレンタインの贈り物だったのかもしれない。
ときわは脳内で想像をする。キッチンに立ち、チョコレートを加工する若い女だ。
恋に焦がれる女性は愛しい人を思いながら、自分の髪の毛を銀紙に包む。
そしてそれをマシュマロに詰めて、チョコレートで包むのだ。
愛しい人がそれを…自らの一部を体に取り込む姿を思い浮かべながら。
だが、どうしてそんな物が自分の胃から捻出されたのか不可解で仕方ない。
口元を歪んだ笑みで満たしながら、チョコレートを加工する女性。
まるで自分に対して一方的な愛を押し付けられているかの様だ。
背筋をゾッと悪寒が走り、ときわは手の中にあった髪の毛やらチョコレートやらをそれ以上見ない様に元の銀紙にすべて包んで、自分のリュックに突っ込んだ。
床に放り出しても良かったがそうすると常に視認していなければならない状態になってしまう。
この狭いエレベーターの中で気味の悪いチョコレートと二人きりなどごめんだ。
それならば、気色は悪いがまだリュックに入れて見えない状態にしておいた方がマシだろう。
リュックにチョコレートを投げ込むついでにスマートフォンを試しに見てみたが、案の定右上には『圏外』の文字が非情に浮かび上がっていた。
だが、その事実が自分をより冷静にさせた。これは夢の中なのかもしれない。幻覚なのかもしれない。
だが、一つだけ確かな事を感じた。自分から何かしなければこの奇妙で狂った空間から出る事は叶わないと言う事だ。
数多の物語と同じ。主人公が動かなければ物語は展開しない。
地の文はいつまでも更新されない。
"おしまい"は願った者にしか訪れない。
ときわは深く息を吸い込み改めてエレベーターのパネルに向き合った。

3.

高坂ときわの悪癖を知る者は本人以外にいない。
その悪癖は世間に知られれば作家どころか人間としての人生も破滅に追いやるほどの物だったがどうしても止める事が出来ないのだ。
高坂ときわは、分かりやすい言葉で表せばストーカーだった。
だが、一般的に言われている、歪んだ愛情を持つが故に特定の個人を追い回すストーカーとは異なっていた。
始めは人間観察と言う世の中に対して斜に構えた程度の趣味に過ぎなかった。
公園のベンチや、駅のロータリーの椅子に腰掛け、行き交う人々の動向を見つめ想像するのだ。
あの老人は自らの孫を見つめながら何を思うのか。あのサラリーマン風の男は缶コーヒーを片手に何を想像をしているのか。
微笑みながらも孫に向けて殺意を抱いてはいないか。あの缶コーヒーには遅効性の毒が入っているのではないか。
それは作家としての想像力を補うためでもあり、ときわの欲求を満たすための行為でもあった。
まともに友人もいないときわにとって、それは世間と自分とを繋ぎとめている唯一の行動だった。
見ているだけで満足できるならそれで良かった。だが、その悪癖は徐々に度を超して行くことになる。
見ているだけ、捨てたゴミを観察するだけ、隠れて写真を撮るだけ、後をつけるだけ。
いつしか彼は興味が湧いた人物に対し、犯罪まがいの行為をする様になっていた。
どうしても知りたくなるのだ。
ただ偶然にすれ違っただけのその人物がどんな人生を背負い、何を思い、どんなストーリーを紡いでいるのか。
作家としての興味本位では足りない。彼は求めていた。人間の営みそのものを。他人の人生を知り尽くす事を。
それは、興味が湧いた人間であれば誰に対しても同じだった。
いや、同じのはずだった。
ただ一人。ただ一人だけ、例外が出来てしまった事を除けば。

チョコレートに包まれたマシュマロを見たせいだろうか。
それともエレベーターの扉に堂々と描かれた"ホワイトデー"の文字に惹かれたせいだろうか。
ときわは躊躇いながらも『7』のボタンを押していた。案内板には『7階(催事場)』と書かれている。
どこに繋がっているかは分からない。何も無いかもしれない。だが、何かがあるとすればその階だろうと感じていた。
ボタンは戸惑いを受け入れるように黄色を点滅させ、エレベーターが動いた。
この場所に閉じ込められてから、初めて密閉された箱が動き出したのだ。
ゴウンゴウンとわずかに揺れながら、感じ取れる浮遊感。
確かにエレベーターは上だか下だかに移動している。
この異様な場所が導く場所はどこだろうか。現の世界か、それとも…?
上等だ。ときわは拳を握りしめた。
数多の怪異を、数多の悪意を文字として何度も書き記した身だ。
何が起ころうともそれもすべて文字へと変える糧にしてしまえば良い。
自分は試されているのだ。非日常に放り込まれ、そこから無事に帰る事を。
ポーンと高い電子音と共に扉が―どこに繋がっているかもわからない扉が―ゆっくりと開いた。
情報は視覚よりも先に嗅覚を刺激した。
むせ返るほどに甘い。砂糖の香り、バターの香り、小麦粉の香り。
目の前に広がる光景は確かにデパートの催事場だった。
『White day』と書かれたポスターが貼りだされ、青と白のハート型の風船が何個も天井から吊るされている。
そして、山積みになっているラッピングされた箱。ショーケースにディスプレイされたいくつものお菓子。
彼女どころか異性の友人すら持っていないときわには縁が無い場所ではあったが、それでもその場所がホワイトデー用の贈り物を販売しているコーナーだと言う事くらいは瞬時に分かった。
彼が知る景色と違う点は、愛想良く笑いながらお菓子を売る店員も、それに群がる女性の姿も、誰一人として見つけられない事くらいだろうか。
この狂ったエレベーターが導いた場所が、都合良く現世に繋がっているとは思っていなかったが、中途半端に現実めいた光景でときわは肩透かしを食らった。
吸い寄せられるようにエレベーターから一歩を踏み出す。
とにかく、もうこんな閉鎖空間から抜け出したかった。例え、その先に何があろうとしても。
誘蛾灯に誘われた害虫の様に、フロアへと一歩踏み出す。するとー。
「あなたの気持ちを聞かせて欲しいの。あなたは何も言わないから。初めて会った時もそそくさと私から離れてしまった。あの日あなたの腕を掴めていたら、あなたはどんなお菓子をくれたのかしらね」
声がした。それがどこから聞こえてきたのかは分からない。だが、確かに女性の声で、明確な言葉で、ときわに…いや、それとも他の誰かにだろうか。しっかりと語りかけていた。
辺りを見回したが、誰もいない。人影も足音も、人間がいる痕跡は何も見つけられなかった。
フロアから踏み出して、再度見回してみたがやはり人の姿はない。
エレベーターから完全に離れてしまってから、扉が閉まってしまうのではと慌てて振り返ってたが、エレベーターは扉を開いたまま止まっていた。
あの声もアナウンスだったのだろうか。いや、だが、あれは機械的な声ではなかった。だが、それにしても…。
ときわは小さく頭を振る。考えても埒が明かない。せっかくあの密閉された空間から解放されたのだ。ときわは人だけが消えた催事場を歩き回る事にした。

催事場を数分歩いて分かった事があった。
ここはデパートの催事場、ホワイトデー関連の物を売っている場である事に間違いない事。
販売されているお菓子はどれも本物であるらしい事。
ここまでは現実と同じ点だ。それから、現実と違う点もいくつか見受けられた。
フロアの隅から隅まで確認したが、人が一人もいない事。
それから、窓も階段もエスカレーターも無い事。
つまり、ここはエレベーターでしか来る事ができない密閉された空間であった。
「結局、抜け出せないわけか」
今更、動揺はしない。
怪異がいる孤島では当然の様に船はしばらく来ず、密室と化した洋館では当然の様に嵐で外には出られない。
ホラーの定石だ。ぶつぶつと呟きながら、ときわは甘ったるい芳香を放つガラスケースの前を通り過ぎる。
キャンディー、クッキー、キャラメル、マカロン、それから煎餅の様な和風のお菓子も並んでいる。
どれもこれも彼が食べた事がない高級なお菓子達だ。綺麗にラッピングされ、誰かに渡される事を待ち侘びている様だった。
その中で一つだけ見知ったお菓子を見つけて、ときわは足を止めた。
『le chasseur』
つい数分前に見た名前だ。彼が胃から吐き出した菓子と同じ物がそこには展示されていた。
なにやら大層な名前…おそらくフランス語で名付けられたそれは胃液に塗れていた菓子と同じ銀紙で包まれていた。
見ているだけでまた口内に酸味がかった液が這い上がって来そうになり、反射的に口元を手で押さえた。
ときわは目をそらし、別の菓子に視線を向けた。
そこにあったのは白く、ふわふわとした、マシュマロだ。
不意に彗太の事を思い出す。彼の笑みはマシュマロに似ている。
ふわふわと柔らかく、捕らえどころが無く、口に放り込めばすぐに溶けてしまう様な笑みだ。
甘ったるくて、いつまでも味を口に残すのに、実体はすぐに消えてしまう。
ときわはマシュマロが入った袋を手に取った。
そう言えばと、彗太からバレンタインにチョコレートを貰った事を思い出す。
『センセイにはお世話になってるんで、友チョコってやつです。お返しは3倍でよろしくでーす』
笑いながら渡されたのは、100円程度の明らかに義理チョコと分かる物で、おまけに手渡されたのはバレンタインを過ぎてからだった。
それでも、ときわにとってはバレンタインにチョコを渡された経験は新鮮で、それが複雑な感情を孕んだ相手からの贈り物となると特別性を持ってしまう。貰った小さなチョコレートは手をつけずに冷蔵庫で大事に保管している。恐らく冷蔵庫の中で風化されるまでそのチョコは大切にしまい込まれ、ときわの口に入る事は無いのだろう。
『大切なあの人への贈り物は決めましたか?』
真横に立つのぼりに書かれた文字を目でなぞる。大切なあの人への贈り物、か。
ときわは手の中にあるマシュマロをよく見た。
5粒ほどのマシュマロが入り、青いリボンでラッピングされた透明な袋だ。
赤い文字で『le chasseur』とリボンにはロゴが入っている。
もし、もしも、この奇妙な世界から帰る事ができたならば。彼に、これを渡す事ができるだろうか。
そっと持ち出そうとしたが、ふと、これは万引きになるのではと気が咎めた。
現実離れしたこんな世界で。店員も他の客もいない狂った世界で。
それでも人はそんな些細な事に罪の意識を覚えてしまうのか。
ときわは自分に苦笑しつつも、リュックから財布を取り出し、中身を見て…絶句した。
「…800円しかないね」
元々、電子マネーやクレジットカードで買い物をするためか現金でいくら持ち歩いているかなど意識していなかった。これで彗太と食事に行くつもりだったなどとは笑えもしない。
電子マネーもクレジットカードも使えない店であったら彼に奢らせでもするつもりだったと言うのか。いくら彼の方が年収が高かろうが、それはさすがに年上の沽券に関わる。
苦虫でも噛み潰した様な顔のまま、ときわはマシュマロの値段、500円をレジ横のトレーの上に置いた。
3倍どころではなく5倍の値段だ。これなら彗太に渡しても問題ないだろう。
マシュマロをリュックの中に大切にしまい込んだ。誰かが誰かに渡そうとしたチョコレートと一緒に。
甘ったるい香りが体中に纏わりつくのを感じながら、ときわは口を開いているエレベーターへと向かった。

エレベーターに乗り込むと、無機質な声色が告げる。
それは、最初に聞いた時と同じ声だった。

「なんかいからおちますか?」

今度こそ聞き間違えていない。
『なんかいからおちますか?』―『何階から落ちますか?』
落ちるのはどこから。落ちるのはどこへ。行く先は奈落か。それとも。
「落ちないよ。どこからも。落ちてたまるものか」
ときわは睨みつける様に再びランプの点ったエレベーターのパネルに向き合った。

4.

「はじめまして、高坂センセイ」
思えば、月野和 彗太は始めから自分の事をセンセイと呼んでいた。
それはときわが大賞を獲った文学賞の授賞式会場の控室で、彼は端の席で緊張に耐えていたときわに話しかけてきたのだった。
次点の受賞者が口にすれば、ともすれば嫌味にしか聞こえない『センセイ』という言葉も不思議と人懐こい笑みから繰り出されると親しみを持っている様に思えたのは確かだ。
高校生の彼はときわと違って、若さと自信に満ち溢れていた。
まして彼は、整った顔立ちをしている。すれ違う者が皆、振り返るほどの容姿だ。
明るい茶色の髪に、澄んだ瞳。ときわよりも高い上背にブレザーが良く似合っていた。
まるで漫画の登場人物だ。
少女漫画なら主人公が恋に落ちる同級生。少年漫画なら主人公のライバル。その辺りが妥当だろう。
年齢こそ近かったが、彼は自分と全く違う人生を歩んでいるのだと、挨拶されただけで瞬時に感じた。
彼が日向ならば、自分は日陰、彼が太陽なら、自分は月。彼が光ならば、自分は闇。
恐らく彼は多くの友人に囲まれ、可愛い彼女がいて、スポーツもできて、成績も良く、親からも教師からも信頼されて…ときわが持っていない物をたくさん持っているのだろう。
おまけにホラー小説だなんて、彼の様な人種が選ばない日陰にまで土足で踏み入って簡単にその場所まで奪ってしまう。
その場所はときわの様に薄暗い場所を好む者の安息の地だと言うのに。
「いきなりセンセイだなんて、嫌味かな。月野和センセイ」
その眩しさに、自分は嫉妬した。だから、ときわが彗太相手に発した第一声は酷く毒を帯びていた。
棘を生やした声色で、突き飛ばす言葉で。
これで彼は自分を嫌うだろう。もう近寄りもしないだろう。
そうときわは踏んでいたが、彗太はきょとんと目を丸くして…笑ったのだった。
「あははっ、何か作品のイメージ通りで逆に安心しました。俺はセンセイって呼ばれるタイプじゃないですし、年下ですし、名前で呼んでくれていいですよ」
差し出された右手を、なぜか拒む事ができなかった。彼の顔と掌を何度も見遣り、ときわはその手を―。

ポーンと高い電子音が鳴り、ときわは顔を上げた。
エレベーターが動いていたのはほんの数秒の間だけだっただろう。
到着した階でドアが開く。その先には想像をしていた通り、たくさんの本が陳列されていた。
手前には平積みされた雑誌類。棚には文庫本や漫画本、専門書や絵本も並んでいる。
デパートの書店にしては広く、なかなか品ぞろえが良さそうだと、ときわはエレベーターから顔を出しながら思った。
次にときわが選んだのは催事場より1フロア下の『6階 書店』と案内されているフロアだった。
このフロアを選んだ事に意味はなかった。ただ、ホワイトデーの贈り物を選んだせいか、ふと彗太の事が意識の中に根を下ろしていたのかもしれない。
書店に行けば、本が好きな彼に出会える様な気になってしまったのだろう。馬鹿馬鹿しい。まるで子供の思考回路だ。
ゆっくりと木目調のフロアの床に足を踏み出すと、催事場の時と同じ様に女の声が響いた。
「私初めて知ったの。マシュマロにあんな意味があったなんて。でも、もしあなたのポケットに甘くてふわふわなマシュマロが入っていたなら、その落ちた身体はポヨンと跳ねて、雲の上にでもいけたんじゃないかって」
つと足を止める。ときわはリュックの中のマシュマロに意識を向けた。マシュマロの意味。
花言葉の様に菓子にもそれに因んだ言葉でもあると言うのか。
それに女の台詞の途中に出て来た"落ちた身体"と言う言葉も気になる。
誰か、落ちたのだろうか。何階から、落ちたのだろうか。
この建物から脱出する手がかりでも探そうかと思っていたが、気が変わった。
マシュマロに意味があるとするながば、このフロアに手がかりがあるに違いない。なにせ書店は知識の宝庫なのだから。
ときわは普段であれば足を踏み入れさえしない、料理本のコーナーへと向かって行った。

慣れない資料を探す事は大変な困難と共にある。
クッキー、ケーキ、マドレーヌ。様々なレシピの本を引っ張り出して捲り、違うと分かるとまたしまい込む。
マシュマロを手作りする事は稀なのだろうか。マシュマロ作り方を記載したレシピ本に中々行き当たらない。
そもそも、ときわはマシュマロの原材料すら知らない。
お菓子作りに関わった事のない多くの人間はそうなのではないだろうか。
時間をかけ、数ある中から何冊かマシュマロのレシピが記載された本を見つけはしたが、その意味まで記された本が無い。
こんな時にインターネットさえ繋がれば意味などすぐに検索出来ると言うのに。
高度な文明に頼り過ぎると、こういった非常事態に対応する術を学べなくなるのかと、ときわは次に取った本を捲りながら思った。
適当に流し見をしていたが、不意にその目が"マシュマロ"と言う単語を捕らえて手を止める。
お菓子に関する評論が書かれている本だ。
そこには『マシュマロの意味は「あなたの愛を、純白に包む」という、良い意味だった。しかし、時を経て変わっていってしまった』
と書かれていた。だが、その先の文章はくすんで読む事ができない。ときわは眉をひそめながらじっとその文を読み返す。
「あなたの愛を、純白に包む」
声に出してみると、リュックの中のマシュマロがとたんに重みを増した気がした。
自分が持つ感情はどうだろうか。とても愛を純白に包むと表現される様な美しい感情などではない。
愛でもなければ、美しい白でもない。
その意味を考えてしまうと、マシュマロを彗太に渡すのを躊躇ってしまう。
マシュマロは、時を経て何に変わったのだろうか。
より良い意味になのか、逆に悪い意味になのか。それすらも分からない。
マシュマロの意味も、胸に秘めた想いと同じ様に、色も姿も変えてしまったのだろうか。
問いかけようにも、記述の先は目を凝らした所で見えない。これが限界なのだろう。
慣れない書籍探しに目も腕も疲れた。
ふと、エレベーターの方向を見遣る。
エレベーターの中は蛍光灯で明るく、ときわをただ待っている様にその口を開いている。
だが、いつまであのエレベーターは自分を待っていてくれるのだろうか。
あのエレベーターが扉を閉ざしてしまえば、自分はもうどこにも行くことが叶わなくなる。
この場所で死ぬまで…いや、この場所で死ぬ事などできるのだろうか。
不思議な事にもう何時間もこの異様なデパートにいるはずなのに、喉の渇きも腹が減った感覚も無い。
死ぬ事は怖い。だが、死ねない事はもっと恐ろしい。
死は救いではない。だが、死により救われる事もある。
ときわは何故か焦燥感に駆られてエレベーターへと駆け戻った。
エレベーターの扉は彼の目前で閉じる事も無く、再びその身を迎え入れてくれる。
そして、あの声だ。

「なんかいからおちますか?」

その声を耳にしながら、ときわはふと思った。
"自分の本が売っているか探してみても良かったな"、と。
こんな狂った世界、それでも秩序が保たれた場所。
そここそ、自分の本が置かれるに相応しいのではないかと感じられたから。

光るパネルに指を這わせる。
7階、6階と降りて来たのだからと、そのまま『5』のパネルを押す。
安直な考えでしかないが、本を探す事に躍起になりすぎて少し疲れていた。
ゴウンゴウンとわずかに揺れるのが少し心地良くさえ思えるほどだ。
すぐにエレベーターは目的の階に到着し、扉が開いた。
目の前に広がる光景は、ときわにとってはまたしても縁遠い光景であった。
そういえば5階は何だったかと扉の上の案内板を見ると『5階(アクセサリー)』と記されていた。
その案内の通り、広がったフロアには眩いばかりの宝石類がショーケースに広げられていた。
チョコレート以上にときわにとっては関わり合いのない世界だ。
また聞こえてくるだろう。そう思いながらフロアへと足を進めると、予想通り女性の声が響いた。
「アクセサリーは何もつけないわ。だって、私がつけたかったのは、あなたからの指輪1つだけだったから」

下戸が酒屋に並ぶ数多の酒の中から酒豪が喜ぶような酒を探し当てる事は難しい事だろう。
ブランドに疎い者が海外のブランド品の中から模造品でない物を探し当てる事は難しいだろう。
それは、今のときわにとっても同じだった。
指輪もネックレスもどれもこれも輝く金や銀の輪っかにしか見えないし、それに嵌った宝石もどれもこれも色鮮やかな石にしか見えない。
唯一の手掛かりとなるのは女性の声だけだ。
"アクセサリーは何もつけない"
"つけたかったのはあなたからの指輪1つだけ"
その言葉を手掛かりに指輪のショーケースを眺めてはみるが、ときわにはさっぱり検討も付かない。
指輪は結婚指輪に当たる物なのか、婚約指輪に当たる物なのか、それとも普段のオシャレにつかう物なのか。
そもそも、結婚指輪と婚約指輪は別物なのか。どうして同じ物にしか見えないのに値段が1桁違うのか。
彗太であればこういった物に対する審美眼を持っているのだろう。何せ彼は、プレゼントする事に慣れているはずだ。
不意に彼が好意を持つ女性に指輪を渡す光景を想像してしまい、軽く首を振った。
関係ない。彼がどうしようと自分には関係ない。そう言い聞かせる。
逸らした瞳が、ふと、ショーケースの端に置かれた指輪のケースに留まる。
それはまるでちょうど来客者に渡す直前だったかの様に、そっとそこに鎮座していた。
「これかもしれない」
声の主、女性が求めているのはこの指輪なのかもしれないと瞬時に判断し、ときわはケースを手に取る。
濃紺のベルベットの手触りのケースをそっと開けると、そこには案の定、銀色に輝く指輪が収められていた。
これを彼女に渡せばいいのか。彼女が求めているのはこれなのではないだろうか。
誰かにバレンタインにチョコレートを渡そうとしていた女性。誰かからの指輪を待ち焦がれていた女性。誰かを愛している女性。
だが、その女性はどこにいる?
ときわはエレベーターに目を遣った。変わらずそこには誰もいない。
手の中の指輪のケースをそのままリュックの中に放り入れる。
いずれ、どこかの階で声の主と出会う事になるかもしれない。
ケースが置いてあった場所に金額が書かれているとおぼしきタグが落ちていたが、それは無視した。
42,000円。残念ながら財布には300円しか残っていない。
「買うわけじゃないよ、ちょっと借りるだけだから」
聞く相手もいない言い訳を並べてから、ときわはエレベーターへと駆け戻った。

「なんかいからおちますか?」

「だから、落ちないよ。下りるだけだ」
すでに馴染み始めた声に、ときわは返事をしながらパネルへと向き直った。

5.

始めは冗談なのかと思っていた。
授賞式の後、話の流れで月野和 彗太と連絡先を交換したがまさか数日後すぐに『明後日、暇ですか?』などとメッセージが届くとは考えてもいなかった。
確かにその場では「今度、ご飯でも行きませんか?」と言われて「いいよ」と返答はしたが、普通そんなやりとりは単なる社交辞令として受け取るだろう。
もう二度と会う事もないだろうと思っていた相手と、ときわはなぜか数日後、最寄りから5駅離れたカフェで顔を合わせて会話をしていた。
変わらない眩しい笑顔に周囲の女性たちがちらちらと彼に視線を送るのを感じていたが、当の彗太は慣れているのか全く気に留めていない様子だった。
次の作品はどうとか、学校はどうとか、最近の文壇はどうとか。彗太が世間話を振り、ときわはそれに短く返答をする。
決して会話が盛り上がっている訳では無かったが、何故か彗太は楽しそうな様子で、それが逆に居心地を悪くさせた。
話題が途切れた時。僅かな沈黙の後に、彗太が目を眇めながらときわに問いかけた。
「センセイは、どうして作家になろうって思ったんですか?」
作家に対する良くある質問だ。これも世間話の流れの一つだろうと、ときわは軽く返答する。
「雑誌のインタビューに書いてあっただろう?」
「あぁ、昔から本が好きでー、うんたらかんたらってヤツですか?俺が求めてるのはそういう雑誌用の偽物じゃなくて、センセイの本心が聞きたいんですよ」
「本心?」
コーヒーを啜りながら、ときわは眉を顰めた。確かに出版社のインタビューで語った事は8割以上が優等生めいた出鱈目にすぎない。
「確かにアレは本心じゃないよ。でもさ、どうして君はそんな事を聞きたいんだい?」
彗太はクリームソーダの緑にアイスの白を突っ込みながらふわりと口元を歪ませた。
ぶくぶくと白い気泡が底から溢れて消える。
「だって、あんな気持ち悪くて、変態じみてて、誰の目からも不快にしか思えないはずなのに、続きが読みたくなる小説を書こうとする動機って気になるじゃないですか?」
散々な言われようだ。だが、彗太の瞳は穏やかでとても目の前の相手を罵倒している風には見えない。
いや、罵倒どころかその表情は好奇心で溢れた子供の様に無邪気だった。
変わっている奴だ。ネット上ではともかく、今まで面と向かって小説について気持ち悪いだの、変態じみているだの言われたことはない。
実際にグロテスクで悪趣味な小説である事は自覚している。
だが、人々が自分を褒める時は『斬新な文体』だの『奇抜なアイデア』だの多少はぼやかして表現をしてくる。
それを彗太は、思った通りに質問を投げかけて来る。
それを許させるのはやはり彼の明るい人柄と、有無を言わせない容姿のせいだろうか。
「…作家になる気なんてなかったんだよ」
「え?そうなんですか?」
「ただ、その時に思った事をひたすら書いて、書いて、ただ書いて…そうしたらアレが出来上がってた」
「………」
彗太は何も言葉を返さなかった。ただ陰惨なだけの妄想を常に抱えている奇妙な男だと思われたのだろう。
「ほら、気味悪いだろう。人間の体を切り刻んで飾り立ててやろうとか、そんな事を常に考えていて、それがたまたま文章になって湧き出してきただけなんだよ。怖い話を書いて皆を怯えさせたいと思ったわけでも、悲惨な描写を書いてマニアを喜ばせてやろうと思ったわけでもないんだ。ただ、自分が書きたいから書いた。あの小説は僕その物なんだよ。それだけだ」
返事が無い事をときわは恐れた。他人から幻滅されるのには慣れている。だが、慣れた所で心地良い物になる訳でもない。
彗太の興味もこれで失せるだろうと、それでも構わないと思っていた。
彗太は作家になるべくしてなった。それは彼の緻密な表現や物語として魅せてくる構成からも伺えた。
才能だけでは成り立たない。努力をしたのだろう。勉強もしたのだろう。
誰かに何かを読ませたくて、彼は物語の作り手となった。
自分は違う。書きたかったから書いただけだ。腹の中で暴れまわる凶暴な暗闇を目に見える姿にして吐き出しただけだ。
もう、帰ろう。彼とは住む世界が違う。光は陽へと、闇は陰へと。決して交わる事などないのだ。
コーヒーの代金を置こうとリュックに手を伸ばしたが、彗太はそれを制した。
「センセイがどう思っているのかは知りませんけど」
彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。その言葉は自分を。いとも簡単に。

ガタンと小さく箱が揺れ、意識が再び現実に戻される。
エレベーターが次に指定した階、4階に到着したのだろう。
4階もまた自分とは縁遠い『ベビー用品、ブライダル』と案内板に表示されている階だ。
もし自分をこの怪奇な世界へと招き入れた女性が誰かを強く思っているのならば、きっとその誰かと結婚し、家庭を築くことを望んでいるだろう。
背のリュックに詰めた指輪の事を思う。
彼女は指輪を渡され、プロポーズされる。そしてその後は、幸せな家庭を築き、めでたしめでたしとなる。
だが、彼女が自分をここに閉じ込め、行き先の無い恋心を抱えたままなのだとしたら、物語は未だ完結していないと言う事だろう。
扉が開くと、そこには純白のドレスが並べられ、白を基調とした高級感のあるサロンが広がっていた。
少し首を伸ばせば、その隣には赤ん坊用の衣類や哺乳瓶や玩具が並べられたコーナーが広がっている。
今度はここで何を探せば良いのだろうか。
ときわが一歩踏み出そうとしたその時。
エレベーターが激しく揺れた。
「うわっ!」
ガンッ、とエレベーターの箱が何かに殴りつけられたかの様に衝撃と共に揺れ、ときわは思わず尻餅を付く。
落ちる。落とされる。ワイヤーが切られ、このエレベーターは地に叩きつけられる。
そう感じたときわは慌てて這いながら扉の外を目指したが、逃がさないと言わんばかりに扉が勢い良く音を立てて眼前で閉まった。
揺れは扉が閉まると同時に収まったが、直後に女の声が響いた。
今までの様に落ち着いた語り口調ではない。その声はヒステリックに喚き散らす。
「なんで私を置いていったの?!なんで私から離れたの??私はあなたの隣で真っ白いウエディングドレスを着て、あなたの子どもを抱くはずだった!ねぇそうでしょう?!?!ずっと一緒にいられた。ねぇそうでしょう?!?!」
呆然とするときわの背後に、何かが、落ちた。
ガシャンと言う音の後に訪れるのは。
静寂。
一連のすべてを無に帰したかの様な静けさが広がり、それが恐ろしかった。
ここは。エレベーターは、決して安寧の地などではない。
ゆっくりとときわは振り返る。
落ちて来た何かを確認するために。
"なんかいからおちますか?"
無機質な声が脳内にこだまする。何が、何階から落ちてきたんだ?
振り返った先にあったのは―赤ん坊の人形だった。
「…人形、か」
少なくとも人間でなくて良かったと胸を撫でおろす。
突然の事態に心臓はまだ早鐘を打ち、額には汗が滲んでいた。
エレベーターが落ちなかった事は幸いだったが、動揺が全身を包み、手は微かに震えてしまっている。
人形は落ちた衝撃からか首が取れ、胴体と離れた場所に散らばっていた。
愛らしい女の子の顔をしているが、首だけの姿は今の状況には気味が悪いだけだ。
ときわは人形の頭と胴体をそれぞれ指で突いて、安全な事を確かめてから拾い上げた。
子供用の玩具だ。着せ替えをしたり、お世話をしたりして遊ぶための物だろう。
桃色のドレスを身に纏っており、クリクリとした瞳でときわを見つめ返してくる。
無残に切り離された首と胴体を繋ぎ合わせてやろうとした時、ふとその頭と胴の両方の空洞に紙が詰め込まれているのが見えた。
「何だろう?」
まずは頭の方から紙を取り出して、内容を読む。掌に乗る程の小さな紙切れだ。
『あなたがこの思いを受け入れてくれるなら、態度で示して』
あの女からのメッセージだろうか。態度で示す。意図が分からないまま紙を裏返すと、そこにもメッセージが刻まれていた。
『あなたがこの思いを受け入れてくれないのなら、あの時のように私から離れて見せて』
―あの時のように。
女は一度、想う誰かに振られたのだろうか。
それなのに、叶わぬ想いを抱えたままエレベーターに憑りついているとでも言うのだろうか。
「いい迷惑だよ」
ぽつりと呟きながら、ときわは今度は胴体の方に詰められた紙を取り出した。
それは、頭に詰められた紙とは質感が異なっていた。色褪せた紙は新聞記事の切り抜きだった。
小さな記事ではあったが、そこには今から11年前に、ある男性がデパートの屋上から転落死した記事が記されていた。
男性の名前も年齢も身分も記載されておらず、事件か事故かあるいは自殺かは調査中としか書かれていない。
この男は女が想い続けていた男なのだろか。何にせよ、落ちた人間はいた。いつかの、どこかで。
ときわは両方の紙を取り出すと、人形の頭と胴を繋ぎ合わせた。すると人形は元の愛らしい玩具の姿を取り戻す。
それをエレベーターの端に座らせてやる。人形は虚ろな瞳で虚空を見つめるだけだ。
するとまた、声が響く。

「なんかいからおちますか?」

短い嘆息を漏らしつつ、パネルへと向き合う。
「…それはもちろん、3階だよ」
冷静に言ったつもりだった。冷静に行動したつもりだった。声は詰まっていたが、理性を保っていたつもりだった。
それでも、4階で訪れた衝撃のせいで指が震えていたのは事実だ。ときわはまだ、動揺していた。
まして、思考回路も度重なる怪奇ですり減っていたのだろう。
出した指は『3』のボタンから大きく外れ、あろうことか『0』のボタンを押してしまっていた。
「…あ」
小さく声が漏れた。0。れんごく。煉獄。天国と地獄の狭間。死者の向かう先。
慌てて取り消そうとボタンを連打するが、一度点滅してしまったボタンの明かりはもう消える事はない。
ゴウンゴウンと音を立てて、エレベーターが下がって行く。いや、それとも落ちて行くのか?
焦りと恐怖に心を支配されながら、ときわは現実ではあり得ない階層へ自分が誘われて行く振動だけ感じていた。
そう、あとはもう落ちて行くしかないのだ。
6.

「でも俺は、センセイの書く物語が好きですよ」
その一言で簡単に自分は落ちた。彼は眩しくて届かない存在。自分とは違う世界の存在。
それが、目の前で緩やかに笑う。放たれた光は暗闇に留まり続けていた自分の目には強すぎて思わず目を伏せる。
「いいじゃないですか。センセイは自分の書きたい物を書いた、俺はそんなセンセイの書いた物を好きになった」
彗太はクリームソーダをストローで啜って、更に朗らかに笑う。
「良かったです、センセイの本音が聞けて。だって、嫉妬しますもん。あんなおどろおどろしいのに、人の心を掴んで離さない物語を狙って書いていたなんて知ったら、自分なんかじゃどう足掻いたってかなわないって…そう、思ってたから」
「嫉妬…?君が、僕に?」
「はい。だって、センセイの作品は唯一無二ですから。誰にも真似できない」
汗をかいたクリームソーダのグラスの中で、カランと氷が転がった。
「センセイの書いた『新月を縁取る』を読む前は、どうして自分が次点なんだって。審査員の感性が間違ってるって思ってたんですよ。だって、俺の小説は何年も構想を練って、本気で書いて、本気で面白い物が書けたって自信がありましたから」
「面白さで言えば、君の作品の方がずっと面白いよ」
「俺もそう思います。俺の小説の方が読みやすくて、理解しやすくて、面白いです。でも、俺のは誰かが真似しようと思えば出来るんですよ。でもセンセイは違う。『新月を縁取る』を読んだ時、絶対に勝てないってすぐに分かりました。自分が次点だった事もすぐに納得しました」
ときわは俯いたまま一言も発せなくなっていた。顔が上気し、鼓動が耳を伝って脳まで震わせる。
知らない。こんな感覚は知らない。怖い。恐ろしい。自分の中の何かが変わってしまう。だから、目を伏せるしかなかった。
もう、自分は彼を直視する事すら出来ないでいる。
知りたくない、知られたくない、触れたくない、触れられたくない、嫌われたくない、嫌いたくない。
怖い。彼が、ただただ、怖かった。
それは、落下する感覚に似ている。高いビルの屋上から身を投げ出す様な気分だ。
ふっと足場が消え、重力に逆らえない身は大空から急加速しながら地へと吸い込まれるのだ。
いや、似ているのではない。自分はこの瞬間、落下しているのだ。
月野和 彗太という存在に、高坂 ときわは落ちて行ってるのだ。
「俺はセンセイのファンになりました」
彼はそう言って、また笑うから。

ガタンっ、と落ちるような衝撃がエレベーターに響いた。
すぐに扉を閉めなくてはいけないと、ときわはパネルの前で『閉』のボタンを押し続けていたが、揺れた衝撃で思わず膝を折ってしまっていた。
眼前で―扉が開く。
着いてしまった。開いてしまった。"れんごく"への扉。
扉の先は暗かった。真っ暗な闇。塗りつぶした様な黒。
その先にポツリと何かが浮かび上がっていた。

―ミテハイケナイ。

思っていても、瞳は勝手に凝視してしまう。見る事を止められない。
それは、その姿は。
ときわがよく知る姿だった。ときわが求めている姿だった。
だが、それは、慣れ親しんだ彼とは異なっていた。
暗い床に転がされたソレは、四肢のあちこちがあらぬ方向へと捻じ曲げられていた。
右腕はペンチでねじ回されたかの様に捻られ、左脚はあり得ない場所に関節が折り作られていた。
体は向こう側を向いているのに、首は大きく曲げられ、まるで助けを求めるかの様にこちらを見ている。
その瞳は絶望に見開かれ、赤い涙を流し、鼻からも口からも赤い液を止めどなく流し続ける。
割れた背からは白い骨が突き出し、服を破りそこからも血を流している。
触れなくとも、その身体はすでに温度を失っているだろう。
ソレはすべてがひしゃげ、折れ曲がり、赤く染まっていた。まるで高い場所から落下したかの様に。

「…彗太くんっ!」

ソレ―月野和 彗太の死体を見ながら、ときわは叫んでいた。
今だから認めよう。
ときわは彗太が好きだった。それを恋と呼んでも構わないならそう呼ぼう。
彼が欲しかった。彼に慕われたかった。彼と一緒にいたかった。
自分の作品を好きだと言ってくれた彼に自分は恋焦がれている。
だから、彼に深入りしなかった。
他の興味を持った者にする様に、後を付け回したりせず、あえて距離を置いていた。
彼を知る事で、彼を嫌いになりたくなかった。彼を理解する事で、彼に飽きたくなかった。
エレベーターの床に座り込んだままのときわを置き去りにして、扉が虚しく閉まった。
愛し人の無残な死骸を煉獄の闇に葬ったまま。

「唄う小鳥のようにあなたの心を慰めたあの人。でもやはり小鳥ではなかったの。だってほら、あの奇妙に曲がった両腕じゃ、空を飛べやしなかったんですもの!」

エレベーター内に不気味なあの声が響いた。
ときわはその声を聞きながら、ただ一人の名を呼び続けていた。
「彗太くん、彗太くん、彗太くん、彗太くん、彗太くん…」
あれは幻だと頭の中では理解している。本物の月野和 彗太は生きていると信じている。それでも。
ときわの中に宿った感情は炎の様に燃え上がり、身を焦がしていく。
愛欲。独占。執着。依存。
そのどれもが当てはまる、醜く強い感情。
彼は、本当に無事なのだろうか。
彼を知りたくなかった。彼を理解したくなかった。彼を愛したくなかった。
だが、その考えは変わった。今はただ…彼に会いたい。
いつでも、どこにいても、どんな状況でも、彼がこの世界にいる事を知りたい。確かめたい。
彼のすべてを知りたい。彼のすべてを理解したい。彼のすべてを愛したい。
ほら、また。あの声が聞こえる。

「なんかいからおちますか?」

7.

早くここから出なくてはいけない。ときわの思考にはもうその考えしか無かった。
今すぐにでもこの場所から出て、彗太の無事を確認しなくてはいけなかった。
何階から落ちますか、って?
落ちるのなら、決まっているじゃないか。
「10階…屋上からなら落ちれる。10階に行かないと」
落ちれば現世に戻れると言う確証など全く無かった。だが、屋上であれば間違いなくそこには空がある。
本物かまやかしかは知らないが、少なくともそこが最も現実に近い場所だと信じ込んでいた。
11年前に屋上から落ちた男。エレベーターに響く女の声。叶わなかった恋心。出口のないデパート。
繋がらないピースを必死に繋ごうとする。
ときわは『10』のボタンを押すが、それは反応しない。
「なんで!どうしてっ!?どうしてなんだ!?」
何度も何度も指先で押し続けるがエレベーターが動き出す気配は感じられない。
絶望感が胸を占める。
希望は閉ざされた。もう、二度と外の世界を眺める事は叶わないのだろうか。
現実は息苦しい世界だった。居場所のない世界だった。すぐにでも逃げ出したい世界だった。
だが、彼がいるのはその世界だ。
ならば駐車場か。駐車場からも空は見えるはずだ。飛び降りる事だって、きっと。
震える指で『8』のボタンを押す。
すると、ガコンと音を立て、浮遊感に包まれた。
エレベーターはまだ動いている。では、なぜ…10階へは上らないのだろうか。
ときわの疑問をよそにエレベーターは上昇を続ける。いつもよりも長い時間が流れる。
やがて、エレベーターが速度を緩め、動きを止めた。
ポーンと、到着を告げる電子音が響いたが、扉は開かない。
『駐車場』。案内板にはそう書いてあったはずだ。今まで他の階で扉が開かなかったことはない。
ときわが扉に近づこうとすると、突然、ヒュッと風を切る音がした。
直後に響く衝撃と音。
何かが叩きつけられた様な音がエレベーターにこだまし、宙ぶらりんの箱は激しく揺れた。
思わず壁に凭れ、揺れが収まるのをときわは荒れる息と共に待った。
天井だ。天井に何かが落ちて来たのだ。
即座にそう覚ったのには理由があった。
天井、エレベーターの換気口からポタリポタリと雫が落ちて行く。
ときわの眼前、流れる雫は赤い色をしていた。
一滴、また一滴と流れ落ちる液体はエレベーターの床に小さな水たまりを作っていく。
その雫の正体は知りたくも無かった。
目を逸らしたときわの頭上から声が響く。
いつもの女性の声ではない。もっと低い、人間めいた男性の声だ。
「可哀想な君。僕の最期をなぞる君。寸分違わずなぞるべきだが、ただ一つ。ただ一つだけ頼みたい。
彼女の愛をどうか甘く包んで慰めてあげて。ああでも、思わせ振りなことはよしてくれよ、絶対にだ」
ときわは天井を見上げる。彼はそこにいるのだろうか。
「可哀想な君。僕の最期をなぞる君」
ときわは彼の言葉を復唱する。"君"とは、自分の事なのだろう。
「彼女の愛をどうか甘く包んで慰めてあげて」
リュックの中の甘いチョコレートを思い出す。どろりと溶けて失われる、あれは甘い愛なのだろうか。
「思わせ振りなことはよしてくれよ、絶対にだ」
不意に彗太の事を考えた。
人懐こくて、優しくて、眩しくて、それ故に残酷な期待を抱かせる彼。彼のせいですべてが狂ってしまった。
生きたいと、会いたいと願わせてしまった。
ときわの復唱に応える様に、声がする。同じ声色。それなのに、今度は違う言葉を発した。

「なんかいからおちたんだっけ」

ときわは思考を巡らせながら『9』のボタンを押した。
そこは8階と同じ駐車場だ。それならば、恐らく。
数秒ほどエレベーターが揺れ、その後に動きがすぐに止まる。
到着を告げる電子音はするが、またしても扉は開かない。だが、先ほどの様な衝撃も訪れない。
すぐに8階と同じ男の声が響き渡る。
「君には酷いことをしてしまったと思っているよ。だけど僕も追い詰められていたんだ。
 君からのチョコレートを受け取る腕が、僕には最初からなかったんだ。」
腕を失った男。それを0階で見た彗太の姿に重ね合わせてしまう。
彼女は見てしまったのだろうか。愛する人が墜落する姿を。ひしゃげた姿を。

また、あの声がする。

「なんかいからおちたんだっけ」

まるで手招く様に、『10』のボタンが点滅していた。
「落ちたのは、10階だよ」
ときわは告げながら、再び『10』のボタンを押す。
今度こそ。そう思うと『10』のボタンが反応した。
ゴウンという音と共に、軽い浮遊感に包み込まれる。
どうして、今度はエレベーターが10階に向かったのかはわからない。
だが、それはあの男の意思の様な気がしてならなかった。
『ただ一つ。ただ一つだけ頼みたい』
男は自分に何かを託そうとしている。それ故に、すぐに10階には向かわせなかった。
流れる様にエレベーターが上昇して行く。その動きに身を委ねながら、ときわは目を閉じた。

8.

ガタリと音を立ててエレベーターが止まる。
電子音と共に扉が開く音がし、ときわは瞼を開けた。
そこはデパートの屋上に設置されている、小さな遊園地だった。
観覧車、ゴーカート、小さな電車、パンダの姿をした遊具。
テレビでしか見た事がない、屋上遊園地だった。遊具は機能している様で古ぼけた電飾をピカピカと輝かせている。
引き込まれる様に一歩踏み出しかけ、ときわは慌てて足を戻した。
ここは男が落ちた場所。恐らく、この世界から抜け出す唯一の方法がある場所だろう。
自分はきっとこの場所で何らかの決断を迫られる。
何が起こるかは分からないが、事前の準備が必要となるだろう。
ときわは、この奇怪な場所で手に入れた物を整理することにした。
リュックを開き、中身を取り出してエレベーターの床に並べる。
胃から生み出された髪の毛が包まれたチョコレート。催事場でお金を払って手に入れたマシュマロ。
アクセサリー売り場で拝借した指輪。
一つ一つを床に並べながら、ときわはふと指輪のケースから何かがはみ出している事に気がついた。
手に入れた時は慌てていて気づかなかったのだろう。挟まっていた物…メモにさっと目を通す。
『≪ヴールの印≫
この印をを使う者は見えないものが見えるようになるだろう』
メモの続きには手の絵が数パターン描かれており、まるでこの通りにやってみせろと言わんばかりだった。
おまじないか何かなのだろうか。奇妙な体験をいくつも重ねてきたのだ。今更おまじない程度では驚きもしない。
「見えないもの、ね」
それは人間が目にしても良い物だろうか。あるいは―。
メモの通り、手で形を作り、それを順序通りに動かす。
ぎこちない動作で軽くその印を切っただけだったが、突如に眩暈と倦怠感に襲われ、ときわはよろけた。
頭を押さえ、眩暈が治まるまで壁に背を預ける。まるで体内から何かを抜き取られた様な感覚だ。
やがて、クラクラと揺さぶられる感触が消え、ときわは目を開き…小さく叫び声を上げて腰を抜かした。
誰か、いる。
エレベーターのボタンの前。
先ほど、ときわが『10』のボタンを押したその場所に、人が佇んでいた。
白いワンピースを纏い、長い黒髪を後ろに下ろしたまだ若い女性だ。
いつの間に彼女はそこに現れた?どこから来た?
そこで先ほど行った《ヴ―ルの印》とやらの効果を思い出した。
『見えないものが見えるようになる』
エレベーターに響く誰とも知らぬ女の声。駅で、"誰もいないのに"ときわを招く様に開いたエレベーター。
彼女は現れたのではない。
ここにいたのだ。最初から、今までずっと。自分と一緒に。
どれだけの間、一緒にいた?自分の言葉も、行動もすべて彼女は知っている?
ゾッと背が粟立った。乾いた口内で唾を飲み込む。
「何階から落ちますか?」
彼女は同じ口調で、同じ言葉を再び発した。
「君は…ずっとここにいたのかい?」
恐る恐る、ときわは彼女に声をかけた。声は僅かに震え、強張っていた。
だが、ときわの問いかけに女性は何も言葉を返さない。
「君が僕をここに招いて、閉じ込めた。どうして?どうして、僕だったんだ?」
返事は無い。
「お願いだから答えて欲しい。ここは君の世界なんだろう?」
「君は誰かを想い、この世界を創り、僕を誘った。それなら帰る方法も知っているはずだ」
「僕は…会いたい、会わなくちゃいけない人がいるんだ」
「どうして、返事をしてくれないんだ?」
ときわが矢継ぎ早に彼女に言葉を投げかけるが、女性の瞳はエレベーターのパネルに向けられたたまま微動だにしない。
傍らに置いていた指輪のケースを拾い、彼女に向けて差し出す。
「これは、君のために用意されていたはずの物だろう?返すよ。だから…」
恐る恐る彼女の手を取ろうとときわはか細い手首を握ろうとしたが、その手は虚しく空を切った。
半ば理解してはいた。彼女は本来であれば見えないはずだった物。ならば、触れられない事も道理だ。
視認できる様になった所で、自分が彼女と同じ次元に存在する様になった訳ではない。
ため息と共に天を仰いだ時、ふと、エレベーター上の案内板の内容がわずかに変化している事に気が付いた。
変わったのは、階数の表示だ。
『0階(れんごく)/1階(食品売り場)/2階(レディース用品)/3階(メンズ服)/地獄(ベビー用品、ブライダル)/5階(アクセサリー)/6階(書店)/7階(催事場)/8階(駐車場)/9階(駐車場)/天国(屋上遊園地)』
これも、見えないものが見えるようになったからだろうか。
4階。女がヒステリックに叫んだ階だ。その場所は…想い人との未来を描く場所は彼女にとって地獄その物だったのだろうか。
そして。10階。今、扉を開いているこの階に描かれた『天国』の文字。
「天国、か」
ときわはぽつりと呟きながら、屋上に広がる小さな遊園地を、乱雑に青を塗りたくっただけの空を狭い空間から見遣る。
落ちれば、そこは天国へと続いているのだろうか。それとも。
どちらにせよ、ここから出るにはこの箱から踏み出さなくてはならないだろう。
「あ…その前に」
ときわは虚ろな瞳で前を見たままの女性をに声をかけた。
「これは、きっと君の物だからここに置いて行くよ」
リュックに入ったままだったチョコレート―恐らく彼女が愛し人に贈ろうとした物と、掌の中にあった指輪をケースごとエレベーターの中に置いた。
マシュマロがまだ床に転がっていたが、それは少し迷った末に持って行く事にした。
これは金を払ってときわ自身が購入した物。従って、彼女の所有物ではないと判断したからだ。
「それじゃあ、ね」
ときわは声の届かない虚ろな影にそう伝えると、エレベーターから一歩踏み出した。
そこにも、音は存在していなかった。
小さな観覧車は誰も乗せぬまま鎮座し、本来であれば電子音を響かせているであろう遊具も大人しくそこに佇むだけだ。
風だけが彼の髪を靡かせる。
空はそこにある。崖下には街並み…いや、街並みに似せた世界が広がっているのかもしれない。
だが、人混みの喧騒も車の排気音も、大気を切る様な激しい風音も耳には入っては来ない。
遊び場は頑丈な鉄製のフェンスに囲まれていた。
が、よく見るとその一部がペンチでこじ開けられ、丁度、人間一人が通れるほどの穴が開いていた。
まるで『そこから落ちて下さい』と案内でもするかの様に。
もう一歩、足を踏み出そうとした時、背後から声がした。何度も耳にしたあの声だ。
「来てくれたのね、嬉しい」
エレベーターから抜け出し外の世界に現れた存在。人であり、人ならざる存在。
振り返るとエレベーターにいた時は全く反応をしなかった女が、こちらに微笑みかけていた。
それは、愛しい人に向ける笑み。恋に落ちた者が見せる笑みだった。

9.

『でも俺は、センセイの書く物語が好きですよ』
その一言で簡単に自分は落ちた。
落ちたのは何?落ちた先に、何があった?
自分は落ちたと思い込んでいた。もうこれ以上は落ちない場所にたどり着いたのだと決めつけていた。
彼女も同じだ。愛しい人に落ちた。落ちたのに、更に落ちる場所があると知らずにいる。
彗太から逃げていた。真正面から自分の感情に向き合う事から逃げた。落ちる事から逃げた。
それを、もう止めよう。ここからは逃げない。今なら現実を受け止められる。

女性がはにかんだ笑みのまま、ときわに歩み寄ってくる。
逃れる様にときわは後ずさりをした。触れられれば何もかも終わる気がしていた。
一定の距離を保ったまま、女性から離れ続けると、やがては鉄柵のフェンスの隙間まで追いつめられる。
背後を仰ぐと、そこには創られた街並みが広がっていた。
10階からの景色は現実と何一つ変わらない。当然、真下に見えるのは固いアスファルトの道路だ。
"れんごく"で見た彗太の姿が脳裏を掠める。自分も落ちればあの様な姿になるのだろう。
脳漿を黒い地面にまき散らし、四肢はねじ曲がり、内臓をぶちまけて、血だまりの中で虚ろな目を空に向けるのだろう。
辛うじて落ちない様にフェンスを右手で掴み、ときわは女性を見返した。
女性の瞳は確かにときわの姿を捕らえている。それなのに、その視線はどこか遠い。
彼女が見ているのは高坂 ときわではない。遠い昔に喪った大切な誰かだ。
「遅くなってしまったけれど、これ」
彼女の表情は溶けかけたチョコレートの様に甘ったるかった。両手で差し出されるのは、小さな包みだ。
綺麗にラッピングされた包みのリボンにはもう何度も見た『le chasseur』の赤文字が躍っていた。
「10年目の今日こそ受け取って欲しくて」
11年目に死んだ男。彼女は10年も死んだ男にチョコレートを、自分の気持ちを渡そうとし続けていただのだろうか。
風が髪を舞わせる。ときわは目を逸らさないまま、緩やかに首を振った。
「受け取れない。それは、僕が受け取っていい物ではないよ」
同じ叶わない想いを秘めた者同士、情けを感じないわけではなかった。
だが、自分がその身代わりの様に振る舞る事は彼女のためにならない。
自分は、彼女が恋焦がれた"誰か"にはなり得ないのだから。
『ただ一つ。ただ一つだけ頼みたい。彼女の愛をどうか甘く包んで慰めてあげて。ああでも、思わせ振りなことはよしてくれよ、絶対にだ』
彼女の思い人はそう自分に託した。贈り物を受け取れば、彼女はきっと勘違いするだろう。
目の前の誰かは、自分の想いを受け止めてくれたのだと。
ときわが強い口調で拒否をすると、彼女は小さく唇を噛んで俯いた。
「そう…よね。もうバレンタインはとうにすぎちゃったものね」
この世界でも、今日が3月14日になるのであれば、確かにバレンタインの贈り物だとすれば1か月も遅い。
今にも泣き出しそうな声色に、ときわの胸が痛んだ。
自分も同じように彗太に思いの丈をぶつけ、拒絶されれば同じように傷つくだろう。
"彼女の愛を甘く包んで慰めてあげる。"
ときわは優しい言葉をかける事は苦手だ。まして、恋に破れた女性にかける言葉などすぐに出せるほど器用ではない。
「…代わりに、これをあげるよ」
リュックからマシュマロが入ったリボン付きの袋を取り出し、彼女へと差し出す。
甘く包めるかどうかは知らないが、せめてもの慰め程度にはなるだろう、と。
彼女は出された袋を見つめ、悲しそうな瞳のままふっと笑んだ。
「…ふふ、酷い人。でも何故かしら、嫌な気はしないのよ。だってあなたからようやく返事を貰えたんですもの」
返事?やはり、自分は彼女に思わせ振りな事をしてしまったのだろうか。
プレゼントは受け取らず、返答代わりにマシュマロを渡した事を酷いと言っているのだろうか。
困惑するときわを余所に女性は実体の無い腕を絡めて擦り寄ってきた。
まるで現実の感触に似た力で引き寄せられ、思わずときわは鉄柵を掴んでいた手を離しかけた。
「さあ戻りましょう?ここはひどく寒いわ」
戻る、とはエレベーターにだろうか。エレベーターは変わらずそこで扉を開けて待っていた。
正面にはエレベーター、背後には遥か遠い地面。選択肢は二つしかない。
彗太の笑顔が脳裏に浮かんだ。ならば、選ぶのはこれしかない。
「嫌だ!僕は、僕の生きるべき世界へ帰るんだ!」
鉄柵から、手を、離す。
自然と体は宙へと投げ出され、足が、腕が、頭が、すべてが浮遊した。
刹那、視界に映ったのは女性が泣きだしそうな顔で差し出した手だった。
彼女は何を叫んだのだろう。その掌は何も掴めないのに。
空気の抵抗を受けながらも重力を切り裂いて、体が加速するのを感じる。
女性の姿が玩具の様に小さくなり、鮮明さを失う。鉄柵が遠くなる。小さな遊園地も。
人間は己に死の危険が迫った瞬間、生き残る術を探すため不要な機能を制限させるのだと聞いた。
その僅かな間に記憶の海から過去の事項から生存率を上げるための記憶を漁る。
だから、時はゆっくりと流れ、昔の出来事が走馬灯の様に流れるのだと。
ときわは緩やかな記憶の中を漂っていた。
だが、どれもこれも、彗太と共に過ごした時間ばかりだ。
彼と初めて会話をした事、彼が熱烈に文学を語っていた事、彼が自分の作品がドラマ化されるのを満面の笑みで喜んでいた事。
自分との時間は彗太にとっては記憶にも残らない程、小さな出来事でしかなかったのだろう。
だが、…に落ちてしまった自分にとっては。それはどれも大切な思い出になってしまっていた。
この身を焦がし、些細な事でも焼き付いて離れない、消す事の叶わない感情。
風がごうごうと耳の脇を流れて行く。髪が舞い、肺が空気圧に押しつぶされる。
もう何階まで落ちたんだっけ?
地面までもうすぐだ。ときわは瞼を閉じ、仰向けのまま、落ちて行く。

落ちる、落ちる、どこまでも、それでも底は存在している、永遠に落ち続ける事なんてない。

ほら、見える、底が、そこに、彼が―     。

エピローグ

柔らかな感触を背に感じながら、ときわは薄っすらと目を開いた。
明るい。だが、それは太陽の眩しさとは違う。蛍光灯の昼白色だ。
掌で床を触るが、そこはアスファルトの硬さとは違っていた。
柔らかく、そして温かい。
「…生きてる?」
勢いをつけて上体を起こすと、眼前に先ほどとは全く違った光景が広がった。
スチールのラックとそれに並べられたまくらやシーツ。木目調のリノリウムの床。『寝具コーナー』と書かれた案内板。
それに何より、自分以外の人間がいた。
カートを押した家族連れが怪訝そうな顔をときわに向けながら、目の前を通過して行く。
子供が「あのお兄ちゃん、大人なのに遊んでるよー」などとこちらを指差しながら。
ときわは呆気にとられながらも、自分の体を確認してみる。
腕も足も何ともない。怪我をしている事もなければ、当然、血に塗れている事もない。
体を受け止めているのは柔らかいスプリングが入ったベッドだ。
ときわの傍では、幼い子供たちが自分の真似をしているらしく、ボフボフと音を立ててベッドに飛び込んで遊んでいた。
何が起きたのかは正確には分からない。だが、自分はあの奇妙なデパートから、現実のデパートに―落ちた。
「戻ったのか」
ぽつりと呟くと、自分に向けられている視線に気が付いた。
一つ、二つ。恐らく横ではしゃいでいる子供達の親だろう。寝具売り場で堂々とベッドに寝ころぶ大人はやはり目立つ。
その視線はどこか生暖かい。ときわが苦笑いすると同時にスマートフォンがリュックの中で音を立てた。
発信者は『月野和 彗太』。
慌てて着信を受けながら、その場を離れる。

『センセイ、駅に着きましたけど…どこにいますか?』
「彗太くん!体は無事!?怪我とかしてない!?」
『はぁ?まぁ、五体満足ですよ。あえて言うならちょっと寝不足なくらいっすかね』
「それならいいんだ、本当に大丈夫なんだね?」
『急にどうしたんですか?あ、俺が死んじゃう夢でも見ました?』

その問いかけに対する回答は「そう」であり、「違う」でもある。
"れんごく"で見た光景がときわを変えた。一度失えば二度と出会えない。
今、この瞬間にいる月野和 彗太が次の一瞬に存在している保証など無いのだ。
『って言うか、本当にセンセイはどこにいるんです?』
「ちょっと待って…すぐそっちに行くから」
ときわは人混みを掻き分けながら、エレベーター横に案内板を見つけて駆け寄る。
どうやら、駅のすぐ近くのデパートに自分は落とされたらしい。3階の欄に『寝具売り場』と書かれていた。
「駅の近くのデパート。5分で行くよ」
『あ、買い物中だったんですか?別に急がなくていいですよ。買い物してからで』
「嫌だ。急ぐ。走って行くから」
『うわっ…なんすかそれ。あははっ、俺ってひょっとして愛されてます?』
その問いかけに対する回答は「そう」であり、「違う」でもある。
ときわを埋め尽くす感情は愛と執着が混ざり合った不純物なのだから。
その時、ポーンと音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。
反射的に身構えてしまったが、ここは先ほどまで見ていた奇妙な世界ではない。
当たり前の様に中からは数人の人間が出て、数人が乗り込み、何事もなくエレベーターは扉を閉ざした。

ときわは駆け出す。
電波の先にいる彼が、現実に存在している事を確かめるまでは心が安らがない。
いや、きっと、彼の姿をその目にしても、その肌に触れてもきっと安心は出来ない。
一度芽生えた恐怖感はもう一生拭えはしないだろう。

「今日は僕が奢るよ。あ、カードが使えるお店にして欲しい」
『本当ですか?あー、ひょっとしてホワイトデーだからだったりして』
問いかけにときわは肯定と否定の中間くらいの曖昧なニュアンスを持った声で唸った。
『なら良かったです、お返しがマシュマロじゃなくて』
「どうして?」
エスカレーターに乗る乗客を押しのけながら、駆け下りる。押しやられた若い男が舌打ちをしたが構わない。
『あ、知りませんか?マシュマロの意味』
「意味?」
結局、あの世界でマシュマロの意味を知る事は出来なかった。
意味もわからず、自分はあの女性にマシュマロを手渡した。
『すぐに溶けちゃう脆い関係…まぁ、つまり「あなたが嫌い」って意味らしいですよ』
「………」
彗太の言葉にときわは黙り込んだ。
"酷い人。でも何故かしら、嫌な気はしないのよ。だってあなたからようやく返事を貰えたんですもの。"
彼女はそう言って笑った。どんな思いで、彼女は笑ったのだろう。
『どうしました?』
急に言葉の勢いを無くしたときわを不審に思ったのか、彗太が問いかけてくる。
ときわはそれに返さず、全く違う事を口にする。
「次は恋愛小説を書こうと思うんだ」
きっとそれは、世の恋やら愛やらの醜い部分だけを取り集めた様な、実に読み手の気分を害する小説になるかもしれない。
だが、それは世の恋やら愛やらの醜い部分でさえ、綺麗に映えさせる事が出来る小説になり得るかもしれない。
光が濃い程、影は濃くなる。ならば、濃い影を描けば、眩いばかりの光を生み出せるかもしれない。
彼が太陽であり続けるのならば、自分は月で構わない。
『恋愛小説…ですか?センセイが?どうして急に?』
「落ちたからだよ」
『落ちた?どこからですか?』
彗太の口調が怪訝そうな物から、愉快そうな物へと変わる。ときわの突拍子もない話を彼は楽しんでいるのだろう。
ときわは「さてね」と一呼吸置く。
駅が、改札が見えてくる。その姿を見つけ、ときわは確かに笑んだ。

「何階から落ちようか?」

-----------------------------------

【あとがき】

リプレイですが、プレイそのままで書くと冗長すぎるので一部省略して、順番も変えています。     書店でマシュマロの意味を知る事ができるのですが、私はダイス目が悪かったため、結局最後まで意味がわからなかったのはセッション通りです。(3回くらい振ったのになぁ…)                            

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

【おまけ】

 探索者データ
  名前:高坂 ときわ(たかさか ときわ)
  【職業】作家 【性別】男 【年齢】25
  【STR】12 【CON】 9 【POW】14 【DEX】10
  【APP】12 【SIZ】11 【INT】14 【EDU】16

 NPCデータ
  名前:月野和 慧太(つきのわ けいた)
  【職業】作家 【性別】男 【年齢】22
  【STR】 6 【CON】10 【POW】15 【DEX】11
  【APP】17 【SIZ】13 【INT】14 【EDU】14

 各キャラの苗字は前に住んでいた沿線の駅名から付けました。

                      

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